2012年12月11日火曜日

随句の基調 (第1回)

         ・・・北田傀子

 基調

 随句(自由律俳句)は韻文であるから説明で句を構成しない。説明で構成しては散文に陥ってしまうからである。
 定型俳句に対して自由律が難しいと言われるのは自由律で散文を成さしめることの難しさである。一句一句で韻相が異なるからである。韻相としたが、韻を構成する要素のごときものだ(後述)。
 定型はこの韻の部分を五七五にゆだねてしまっているので、定型作者には韻構成をわずらうことがない。韻についてはあなたまかせで済み、韻そのものにさえ思い及ぶことがない。ここに俳句が大衆芸術(?)として流行した原因があった。が、その分、実質が甘くなり、韻を外してみれば大した内容でもないことに気付かずにいる。
 定型の五七五に沿うことは、一面では説明を省くことでもあって、これが韻文としての成立を助長する。ところが随句では数的構成に束縛がない分だけ説明が許され、長さに制約がない分だけ長くなり勝ちで散文に近付きやすい。
 随句は定数からの解放なので、一句一句はそれぞれの中に定数に代わる韻構成を備えていなければならない。そうでないと句は文章の断片と変わらないものになってしまう。だらだらと間のびしてしまうのである。
 ところが、世間に対して韻と散文との境界がなされ難い(なされていない)ことから、世間一般にとっては近付き難いものとなっている。随句の難しさは非定型における韻文理解の困難さにあると言ってもよい。
 このように難しいものと思われる随句の韻性の要素を私は「数」・「音」・「意」の三要素として説明する。これらのものはわれわれが古来から受け継いできた日本語の持つ特性の中に在るもので、説明は難しくても、実行には容易なことなのである。むしろ、いちいち言われなくてもそのようになっていることが多い。それが日本語の自然だからである。
 日本語にはそのように構成される必然のものがある。だから体感覚そのものに対して日本語で表現されるとき素直に韻構成になる。体感覚に純粋であれば説明の部分が入り込む余地がなくなるのである。したがって文法に未熟な子供の作品でも、感性度の鋭い作品を見せることがある。最初から説明しようと構えていないことが率直な韻性を生むのである。
 逐次そのことを述べていく。

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