2013年6月7日金曜日

随句の基調(第5回)

         ・・・北田傀子

感性のひらめき

 随句(自由律俳句)は感性の「ひらめき」を歌うものである。この「ひらめき」は瞬時にして成るもので、したがって随句は最短の詩型をとる。「最短の韻文」ということが随句の特色の第一である。
 感性のひらめきは瞬間ではあるが、すべての感性の根源をなすものであるともいえる。おそらく世界で最も短いこの詩型は感性の根源に立つことから唯一無比であるといえる。
 「最短の韻文」というが、最短とは句の長さが最短ということと少し意味が違う。韻文を構成する節(フレーズ)の数が最少数ということで、一句の韻を成す節の最少数は3である。
 ここで以下のことを述べる資料に尾崎放哉の作品を上げておく。

   足のうら洗えば白くなる
   入れ物がない両手で受ける
   月夜の葦が折れとる
   墓のうらに廻る
   久しぶりの雨の雨だれの音

 句は韻文である。節は相互に共鳴し同調し循環するもので、その最も有機的に機能するのが3ということである。定型俳句も3節であることは共通である。ただ定型ではおのおのの節の語数を575に限定するが随句では語数に制限はない。
 さきに「感性のひらめき」と「感性の~」を加えたのは意義深いものを含めたつもりである。人間の感性を分析すれば五感に至る。これを感覚に置き換えると、

   視覚
   聴覚
   触覚
   味覚
   嗅覚

がある。これらの感性を扱うのが随句である。ということは、随句では頭で考えた思想とか叙述とかの理屈でないものを扱うことに特色があるということになる。理屈で感性を扱うと句は文章になってしまう。韻文で扱うのは理屈なしの感性で、「ひらめき」といっても理屈や文句のそれではないので「感性の…」なのである。理屈なしの感性のひらめき、これを私は無条件という。
 この無条件という感覚は定型にもあった。芭蕉が、

   古池やかわず飛び込む水の音

の句で発句の開眼をしたというのがそれで、理屈なしの無条件の感覚に目覚めたということなのである。理屈は同じ575でも川柳の方にまかせ、発句は季題を設けたことで自然に、五感を外れることが防がれたのだといえる。
 随句は季題の制約も持たないから、無条件感覚を体で覚え込むことが非常に重要なことになる。私は特に随句は肉体感覚ということを強調し、句は「見える」ように「聞こえる」ように「味わえる」ように「触れた」ように「匂う」ように表現されるべきものだという。そうすれば理屈・観念・抽象といった文章化を避けることができ、自然、無条件感覚になると考えるのである。
 このことは具象あるいは実体表現ということにも繋がる。五感表現は肉体、つまり実在する表現だからである。そうでないと、テレビでいえば、字幕(テロップ)だけで映像がない画面をみるようなものになってしまう。随句の場合は、文字ばかりあって姿、かたちの見えない句になってしまう。私はこれを「文句」と呼ぶのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿