2013年8月21日水曜日

第2回世界俳句セミナーで感じたこと、世界俳句で思ったこと

         ・・・そねだ ゆ

 禅と俳句問答

 欧米の俳句を見ると、鈴木大拙の啓蒙もあり、欧米作品の中に「禅」を意識した作品観が強く感じられます。
 瑞穂の国大和が誕生する前から、この地は、地理的に海に囲まれ温暖多湿で豊かな自然に恵まれて、なおかつ台風火山地震などの天災が頻繁です。ここで自然崇拝に基づく神道が生れたのには必然があったと私は思います。一木一草に命を感じて慈しみ、石や木に神が宿ると崇拝する思想は、また全てのものに仏が宿るという仏教での化相観とも矛盾なく、我々の先祖は素直に受け入れました。特に誰でも念仏を唱えれば極楽往生できるという大乗仏教の教えは、特別な修行を行った者だけが救われるという上座部(小乗)仏教とは異なり、禅により内観して、己のこだわり=欲望に執着することから生ずる煩悩から解脱するために、『色即是空 空即是色』を悟ることで幸せになれるという宗教観がこの国に生まれた者に伝えられて来ました。禅の公案に見るように、端的な言葉からそれぞれが何をイメージするかどうかを問うあり方が、短い言葉で自然・宇宙の全てを表現できることが、まさに俳句の寄物陳思の考えと通底するものがあるので、俳句の心を欧米に説明するのに禅の考えが用いられたのだと思います。
 上座部仏教では、綺麗に咲いている花を見て美しいと思うのは迷いであると説くのに対して、大乗仏教は美しい花を見て美しいと感じるのは迷いではない。しかし、その美しさに心をうばわれ、とらわれてはいけないと説くのです。このように、上座部仏教は、人間の欲望などは迷いのもととして厳しく自分を律していくのに対して、大乗仏教は、物事にとらわれない、おおらかな心と、まず他人のことを考えようという、目を外に向ける立場をとります。ものの表面に囚われるのではなくものの本質を自分の心で感じなさいと言うことだとも言えます。
 考え抜いて、人の頭の限界を知る、これを解脱と言います。ここに至れば、雑念を表すβ波は消え、無我の境地のα波となります。座禅修行の最初の脳波はβ波ですが、究極にはα波になります。
 私は人から一歩歩く毎に句を垂れ流すと揶揄されています。鶏じゃあるまいし。(笑)
 考えて作っていては、分かっている人は見破るはずです。一般人が心ひかれる山頭火や放哉では、始めの頃の作品には井泉水の赤が入っていましたが、自然に句が生まれる境地になってからそれはなくなっています。あらゆる修行では無心になれば、勝手に作品が生まれることは知られていて、却って普通のヒトはそれを肌感覚で素直に受け入れるのだと思います。
 月に六〇〇句を投句できるまでに修行し、日常でも散文脳と韻文脳を容易に切り替えることができるようになりました。句を作ろうと考えた時点で、それはβ波で作っているということです。
 山頭火は句を拾うといい。放哉は落ちてくると言います。作曲家は神が降りて来ると言います。β波ではなく、α波で作っているということだと思います。
 仏教での解(ほど)ければ仏という境地は、欲=煩悩があればそれに囚われて自分の脳の範囲でしか発想が及ばないということでしょう。世に発明というものがありますが、人間は独創性があるから発明するものではありません。この宇宙・自然がその中に隠している真実のルールを発見できたから、それを発明と言っているにすぎません。発明は「明らかに発した」という意味だと思います。人間は神ではなく下手な考え休むに似たりで頭の中に大したものは入っていません。心を無にしてこの宇宙の理(ことわり)を受け入れたものが、新しいアートを発見できるのだと自分は思っています。
 西日本では浄土真宗が割と普遍的です。自由律俳人(随句人)のうち有名・無名を問わずこの地に多くの作家を見るのは偶然とは思えません。「南無阿弥陀仏と唱えるだけで成仏できる」という思想が随句(心を随意において感謝を感動として句に表現するという意味)の心と共通しています。
 難しい理屈はいらない。心が良いと感じたものを素直に良いという表現、これが詩や俳句の真髄と思います。そうして生れた作品ことが人間そのものを表す大衆文化と密着し得ると思うのです。

 俳句とは何か?

 ここで整理の為に生理学的に検討しますと、カードのハートは心臓の形から来ていますが、これは感動したり興奮した時に心臓が高鳴ります。心拍数を制御しているのは実は脳幹であり、これと大脳辺縁系など人間は生命体として生れた時に備えた生存のために必要な旧い脳であり、動物などと共通している本能を制御します。人類が進化して気象変化や野獣から身を守るために、大脳を進化させ、言葉をしゃべり仲間と協力し、知識を後世に伝達することで蓄積し、道具を作ることで生き残れるようになりましたが、この時は大脳新皮質=新しい脳を発達させました。一方、心高鳴る感動は旧い脳によるものです。新しい脳は、受け狙いや自分をさらけ出すことに抵抗感で苛まれることを逃れるために、小細工をします。つまり嘘をつきます。
 これらの人間の生理を客観的にみれば、「感動の表出であるべき詩は、頭=新しい脳ではなく、本能=旧い脳=心で感じたままに表現する」ことが原則だと言うことが明確になると思います。
 定型俳句は、指を折り、歳時記を手にとって作られることが殆どであることから詩の前述の原則から言うと少し外れていることは確かです。ただ5・7・5と歳時記が完全に身に着くまで修練すれば、その俳句は詩になることに疑いはない事実です。とにかく句をひねくっている内は、本当の詩に成っていないということです。このことを自戒するものが少ないことが、今の俳句に、「詩は頭でなく、心で作る」という大原則が忘れ去られ、レトリックをひねくる悪習がはびこっている原因だとも思います。
 正岡子規が俳句を再定義しましたが、それが芸事俳句になる危険を回避するために、碧悟桐や井泉水などが興した俳句革命ですから、随句(自由律俳句)は指や歳時記を必要としません。技巧やレトリックや切れ字など無駄な修辞法を必要としません。感動を素直に表現する。「ああいいなぁ」と思ったことを見た通り感じた通りに表現することで、句の内容の良さや感動点を読み手の心にストンと伝えることが大切なのだとするのですから。もちろん現状はこの原則まで理解して作っていない自由の履き違えの自由律俳句作品が多いのも事実ですから、原則を守っている作家を見分けることもまた評者や作家に期待したいと思っています。

 世界的とは何か?

 人はどこに生れ、どんな姿に生れても、どんな考えを持っていても平等なはずです。なぜ自分だけの考えや作風だけが正しく、他の考えや作風が間違っていると言えるのでしょうか。それぞれの意見を述べあって、それぞれの違いを確認するのでなければ、互いの良いところを学ぶことができません。またそれこそ世界に広がるはずの世界俳句の趣旨ではないでしょうか。存在するときにはそれは存在するだけの意義があるからだと自分は思っています。偏食は病気の基、心の病である偏見は自分を疑ってみるという哲学が無いことを表していると思います。自分だけを肯定する煩悩から逃れられないと、それはアートとしての発展はおろか存在そのものを自己否定することだと自分は思っています。
 自分は、父を南洋の島で戦死(餓死)され、広島の原爆被害を肌で感じましたので、戦争や争いを無くするにはどうすれば良いかを考えてきました。最初は旧約聖書の創世記にあるバベルの塔を読み、言葉の違いが相手を理解することを妨げているのか思い、外資に転職しました。しかし、そこで分かったのは、同じ言葉をしゃべっている日本人同士が些細な意見の違いで、相手を疎外する状況を見ることが多く、言葉の違いが問題ではなく、相手の考えが違うことを当り前に受け止める心の幅が狭いことにあると気がつきました。そして意見は意見、違う意見がある方が発展をもたらすことがあるので、自分のそれとは違っても認めたり学ぶと言う心の幅を持つという自覚ができていないことが問題だと気がつきました。どのアートでもこのことは大切で、違う意見や考え方から学ぶ姿勢は、自分や作品を向上するためにとても大切だと思うのです。
 どんな人からも、どんなことからも学べる人は知的で素敵だと思うのです。

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