2013年1月2日水曜日

自由律自由に囚われ律もなし

         ・・・そねだ ゆ

 土曜日は、「東京自由律俳句会」の反省会と次の春季会のスケジュールの打ち合わせでした。

 その後、「自由律句のひろば」へ、佐瀬さんが、「自由律俳句」という言葉、つまり「俳句」が無い名前の会には参加できないと、従来の主張を繰り返して意思が固いことを示されました。その時に吉多さんが、『ぎんなん』新年号の編集後記に、

 例年よりも寒い日が続いて、今の世相を表しているようです。そんな折、ぎんなんの立ち位置の大切さを思います。句作りする自由のあるところでの道場が保証されることです。周りがいくら変化をしても、こうした環境を維持しつづけるぎんなんは貴重な存在です。人間が作る社会ですから、好き嫌いの感情が芽生えるのは致し方のないことです。その弊害を越えるためには、どの会員の主張も同じ土俵の上に載せ、表現主張できる場を用意することです。無視をしたり、排除したりするのではなく、等しく主張できるようにすることだと考えます。自由律俳句は文字通り自由な俳句の表現です。これはいけない、これはきまり、と表現に制限を加えてゆく方法では、宗匠の定型と何らかわりはありません 。でたらめではなく、自分のリズムは自分がみつけてゆく開かれた気持ちが自由律俳句の真骨頂であると思います。下手でも自分らしい俳句が並んでいるそんな句の野の花のような場でぎんなんはありたい。(広隆)

 と書かれているのを引き、広場の名前に「俳句」が無いと言うだけで、広場を否定するのはおかしいではないかと意見されました。

 佐瀬さんのこの編集後記は、12月18日におこなったぎんなん句会で、わたしが、一字空け(『草原』では散らし書きと言って、未完成な句とみなします)にすると2行詩と同じになり、自由詩として発表するべきだと思うという意見を述べたことについての、批判であることは明白です。
 もし佐瀬さんの自由律俳句観が『ぎんなん』の後記の如くであるとされるのなら、私が言った意見を抑え付けることはおかしいし、また自分が「俳句が無いのは自由律俳句とは認めない」と固執されることと矛盾していると思うのです。
 私は俳句性を尊重します。散らし書きの句は、過去には確かにありますが、誰かの句として一般の人が記憶しているような句にはありません。記録にはあっても記憶にない句を、私は歴史の腐食に堪えない、残らない作品と言います。どうせやるなら、文学性にこだわりたいのです。意見を言いますが、それを押しつけることはしません。思い付きを句にする段階から、句の深さを求めれば、句読点や散らし書きなど表面的なものに力を入れるより、対象への姿勢をこそ拘るべきだと思います。
 定型でも眼差しを深めれば、記憶に残る句を自在に表現できるようになります。句評から好き嫌いを区別することは実際には難しいのではないでしょうか。句評とはそうした目的ではなく、もっと真摯に対象に向かい合えばよいのにと、句評の一つとして意見を出しました。一つの句評を無視されてもそれはその人の自由です。句評の意見を自由に言えない『ぎんなん』であるとは思えません。

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