2013年1月6日日曜日

座談会「『草原』創刊号を読む」

         ・・・古戸×粟賢×錆助

 2013年1月15日 『草原WEB』ネット会議室

錆助:さて、今回俺達三人で『草原』創刊号の「かもめ座」を読んだワケだけど、二人はどうだった?
ぶっちゃけ、俺的には薄井啓司さんがムチャクチャ良かったんだよね。

粟賢:特別記憶に残った句はある?

錆助:記憶に残った一句となると豊村多喜夫さんの「引っ越して墓が遠くなった」なんだけど、とにかく今回の啓司さんの句は他の同人の句と比較しても、総じて良句が多かったんだよね。
粟賢は特に印象に残った句ってあるの?

粟賢:ないね。

錆助:マジで?!なかなか粟賢の選句は厳しいんだな(笑)
俺は啓司さんと北田先生には秀句が多かったと思ったけど。古戸はどう?

古戸:創刊号(15-01)では、特に啓司さんの句に惹かれました。「溜池の底に落ちた新聞紙ひらいている」「少しあいたカーテンの夜汽車ゆく音」「夜汽車のいくつもの窓が過ぎる」「朝の港の手摺りにさわれば冷たい」この辺りいいですね。いずれも日常をよく観察している句です。
夜汽車の句など、まずもって「夜汽車」という語から感じる旅愁がいいです。しかし読み手は決して夜汽車に乗る旅人ではない。それを傍から眺めているだけなのです。通常を生きる人の日常という感じが出ています。
記憶に残った一句となると、傀師による「柘榴の木に柘榴なく冬に入る」。
次点で、多喜夫さんによる「トイレのにほいのないホテルのトイレ」を。多喜夫節が満載でいいです。

粟賢:草原WEB見て啓司さんの句を再確認したら、確かにいいね。静寂を知っている気がする。
水蛾さんって人の句も好きだな。

古戸:啓司さんは、確かに静かな句を詠まれますね。『草原』の創刊号(15-01)と今月号(25-01)の句を読み比べると、そのぶれなさに気づきます。「静寂を知っている気がする」、いいですね。さすがです。
水娥さんの句なら、WEBでも書きましたが、「下界は朝焼けの農道が光っている」が特に好きですね。
しかしこうしてみると、皆いなくなってしまって寂しいものです。

錆助:古戸が寂しい事を言ってる(笑)
確かに残念だが、句は残ってるんだから、こうして俺達が埋もれていきつつある『草原』の句を掘り起こしていく作業は大事だと思うぜ。
水娥さんの句は悪くは無いんだけど、今回に関しては個人的に「機上にて」っていう前書きが無い方が良かったと思ったんだよな。あの前書きのせいで、ああ、全て飛行機の窓からの景なんだなって理解出来てしまって、それが読者の読みを萎ませちまってると思うんだよ。
前書きって、自句自解に近い部分があるから、付ける時はよく考えた方がイイ。その前書きが付く事で句が広がりをみせるならイイけど、単なる句の補足や解説の為だったら絶対無い方がイイよ。一句としての力を損なう事になりかねないもん。

古戸:確かに前書は不要だったかと思います。
そういえば私も旅行句を掲載する際に、行った先を句の前に書くことがあります。句が日記を兼ねているためあのようにしているのですが、あれも一種の前書、考えないといけませんね。
私も前書不要派のはずなのですが、どうもいけません。

錆助:旅行句とかの前書きは連作として読ませたい場合とかは有効な気がするけどね。
とはいえ、前書き無しで水娥さんのそれぞれの句を眺めれば、どの句もなかなかに大きな景の幻想的な句で魅力あるよね。採るなら俺もやっぱし二人と一緒で「下界は朝焼けの農道が光っている」かな。
古戸と粟賢は創刊号の敬雄さんの句ってどうだった?

粟賢:井上さんの句を二人は選んでないね。「青空高く遠く山並み続く」はリズム感もよくて好き。

古戸:今回は、私は井上さんの句を採っていません。
(余談ですが、私の場合、無点、△【1点】、○【2点】の三段階評価です。草原一望へは、△か○がついた句を選びます。)
何かが悪かったというわけではありませんが、なんででしょう。
あえて一句とるなら、「目をつむる湯舟にどんぐり落ちてくる」ですね。井上さんの句をとらなかった理由として、既視感が強かったというのがありそうです。草原へ入って以降、井上さんの句をよく読み込んでいたためでしょうか。

錆助:俺、敬雄さんの句ってスゲー好きなんだけど、今回の句群はイマイチとれなかったなぁ。ファンだからついつい「敬雄さんはもっとスゲー句を作る人だ!」って勝手にハードルを上げてるのかも(笑)
素直に眺めりゃ「かげつれて朝日の野菊の道」とか完成度の高い秀句だと思うけどね。
んじゃ、小田部昭代さんは?俺は今回「山間の靄ふるわせてヘリが行く」を採らせて貰ったんだけど、二人はあんましピンとくる句がなかったんかな?

粟賢:そうだね。

古戸:悪くはないという感じです。採るならば「朝日に透けて大文字草の赤い茎」です。

錆助:うん、その句もイイね。ちょっと冗舌だけど「からまつ林のななかまど一本に実がある」も悪くないと思う。でもまあ、もう一つ何かパンチが必要なのかな。けっこう類句の多そうな景も描かれてるからね。
さて次は、豊村多喜夫さん。俺も古戸もそれぞれ一句づつ採らせてもらってるけど、粟賢的にはそうでもなかった?

賢太郎:採るなら「引っ越しして墓が遠くなった
山のない穏やかな感じはいいけど、評を入れたい句はなかった

錆助:多喜夫さんの句って、北田先生の「近什」や古戸暢の句に雰囲気が似てるんだよなぁ。

古戸:多喜夫句の特徴は、誤解を恐れずに言えば、巧さがみられない点です。
錆助さんのご指摘通りのことを、我ながら感じています。

錆助:北田傀子の「近什」、豊村多喜夫、馬場古戸暢と続く無技巧脱力句の系譜だ(笑)

古戸:草原が生んだ最高の作家は、豊村多喜夫だと思っています。
ただ、決して巧い句を詠む作家ではなかったし、評価される作家(よく点が入る作家)というわけでもなかったです。しかし、心に響く句を詠む作家でありました。

錆助:俺や粟賢は『草原』誌上で一緒に句が並ぶ機会の無かった作家さんなんだよね、多喜夫さんって。だから、草原WEBでその句に触れる機会が出来たのは良かったと思う。

古戸:氏が亡くなったのは、21年の春先のことだったと思います。両氏が入られたのはその後ですね。
末期に残された句に「同居の家族がよくしてくれた最高」があります。決して巧くはありませんし、句会で出されても採らないと思います。しかし私は、この句を目標に定めてもいるのです。不思議なものです。

錆助:では最後に、そねだ編集長の句を語りましょうか(笑)
今回、そねだ編集長の句をとっているのは粟賢だけなんだけど、古戸はどうだった?

古戸:現在の句風とはまた異なるように思います。
採るならば「握り締める女の拳の静脈の青さ」です。

錆助:個人的には多作のイメージのあるそねだ編集長が創刊号は僅か5句しか出句してないのにまず驚いた(笑)
採るなら俺も「静脈」の句かな。

古戸:そねださんの投句は、あるいは北田師よりストップがかかっていたのかもしれません。多く送っても頁数の関係で載せられないので、的な。どうなんでしょうね。

錆助:今度、編集長に聞いてみようかね(笑)
……といった処で、今夜はそろそろお暇しましょうか。また機会があれば皆で色々喋りたいね。んじゃ、お疲れさん。

古戸:お疲れ様でした。

粟賢:お疲れ。

2 件のコメント:

  1. 自分も時々やるのですが、名前を書くときは確認するとよいともいます。
    「武雄」じゃあの人らしくないです。「好雄」です。
    誰でも「あの人は好い人でしょう?」と確認を求めてくるので、困ることがあります。
    私が良い人と思うのは、自分と違う人も認めることのできる人、人を物扱いしない人、困った人を助ける人、責任感のある人です。

    句は「採る」だと思います。

    小田部さんや啓司さんは、まさに正当な「草原風」の代表者です。
    好雄さんや明人さんは、いわゆる随意に句を作るという「草原」の典型ですが、私が後に強調することになる「まなざしの深み」を追及することがないので、マンネリになってしまうのだと思っています。ものを見るときに、己の人生哲学や世界観を深めないと、ものの表面だけで詠むことになります。日頃考え続けていけば、日常の同じものを見ても、日ごとに別物に見える筈です。哲学とは今の自分を疑うということだと自分は思っています。

    私は、全体的にはいまだしですが、暁子さんがいい句を残されていると思います。きむらけんじさんも同意見です。
    としこさんは、短律にいいまなざしを持っていました。
    水娥さんの句は、作った感があって、他の結社でも女子句に見られる飾りが透けて見えます。
    多喜夫さんは、その人格、感謝の精神があって、浄土真宗の念仏のように柔らかく気持ちの良い感動を伝える希有な句です。その意味で、好雄さんと似ているようで、まるで違う精神世界を感じます。
    当初の「草原」は、隗師が、随句とみなす基準から外れた句は載せなかったのです。

    当初の私の句は、「草原風」からかなり離れていて短詩の影響で「草原風」ではなかったので、あまり載せてもらえませんでした。

    今は、作家のそれぞれのまなざしは違うはずという私の随句観ですから、添削もしていませんし、来たものは原則全部掲載していますし、隗師も同じように新しい個性句も選句されているはずです。
    最初に随句の基本的なことは述べ、連れ句で例示をしており、それを知っていただいた上で、皆さんの句の中から互選された結果で自分の句を見直してもらうことができることを期待しています。
    また得点句の自解を読んでいただいて、自分の読みのレベルを反省していただければ、詠むときにきっと効果は出てくるはずです。

    また、助言を求められれば、意見を言いますが、それを採る採らないは、作家の能力だと思っています。
    よく『随句の基調』は枠にはめる、自由律に枠はないはずだという偏見で見られることがありますが、哲学のない人が、哲学は必要がないということに似ていて、マンネリの生き方をする人には、それでいいのではないかと思いますが、詩の原則、人に感動を伝える文学であるということを理解していただける方が少しでもおられれば、私は力を惜しまないつもりです。

    返信削除
  2. そねだ様

    コメント有り難う御座います。ご指摘いただいた点、全て訂正致しました。
    今後とも、どうぞ宜しくお願い致します。

    返信削除