3節
随句は韻文である。句が説明にとどまったり、物語りになってはいけない。つまり文章になってはいけないのである。私はこのような作品を「随句」でなくて「文句」だという。
随句は定型のように数韻の規制や季題の約束はないから、韻構成については厳しいものが求められる。随句が難しいといわれるのは、多分、この点であろう。随句の韻は3節である。3節がはっきりしていることが大切なことで、2節で「何がどうした」ということだけで終わっては句の体を成さない。だから句は短ければいいというものではない。3節を構成する長さは必要ということである。
今後の説明への資料として種田山頭火の作品を数句あげておく。
まっすぐな道でさみしい
ぶらさがってゐる烏瓜は二つ
すべってころんで山がひっそり
まったく雲がない傘をぬぎ
よい湯からよい月へ出た
3節は3つに区切って読むことから入る。
まっすぐな・道で・さみしい
ぶらさがってゐる・烏瓜は・二つ
すべって・ころんで・山がひっそり
まったく・雲がない・笠をぬぎ
よい湯から・よい月へ・出た
読み方にもいろいろあるだろうが、ここではこうしておく。これを、
まっすぐな道で・さみしい
と2節には読まない。読めば読めるが3節に読むのが随句人ということである。また、そのように読ませるものが内蔵されていなければならない、とも言える。
説明の便宜に、私はよく三角形を使う。
「まっすぐな」は「道で」と続くが、「さみしい」とも隣り合っている。まっすぐにさみしいのである。このように「まっすぐ」「道」「さみしい」の三つの節が相互に響き合い、矢印に循環してこれを繰り返すことによって「韻性」が生まれるのである。さらに言えば、「まっすぐな」「さみしい」「道」と逆流さえするのだ。句は繰り返し読むことによって受容が深まるというのはこのことである。
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