2013年3月11日月曜日

随句の基調(第4回)

         ・・・北田傀子

 三つの韻

 随句の韻には数韻・音韻・意韻がある。これらは3節の間での反響や共鳴や循環などによって効果的に機能するものなので、3節の息遣いと不即不離の関係にある。

「数韻」
 3節各節の音数による韻である。定型俳句は575の定数韻だが、随句では多くの一句一句が違っている。定数によらないのだ。

   まっすぐな・道で・さみしい

 は5・3・4である。

   ぶらさがってゐる・烏瓜は・二つ

 は8・6・3、

   すべって・ころんで・山がひっそり

 は4・4・7、

   まったく・雲がない・笠をぬぎ

 は4・5・5、

   よい湯から・よい月へ・出た

 は5・5・2である。
 同数を連続して調子が合うのは自然の調律で、「歌」の原点である。音数が少ない節は逆に強調となったりする。3節は息遣いだから、節同士は均衡にあろうとする。そこで長い節は早く、短い節はゆっくりになるからである。日本語の無意識というものであろう。

「音韻」
 後に述べる通り、日本語は単音に情感を持つ。アを母音とする語は陽性であり、イを母音とする語は霊性であり、ウを母音とする語は陰性である。古代日本語はこの3音を以てこうせいされていたもののようである(オ音・エ音については別に述べる)。
 次に、日本語の語句は1音に1音が順次に繋がって構成される。
  あ+き+ら+か……明らか
のようになる。このとき「明らか」の情感は先頭の「あ」が代表する。ここでは「ア」の陽性である。あとから加わった語の「か・ら・き」を下から順次取り去っていけば最後に「あ」が残る。同様に、
  あ+か+い……赤い
の情感は「あ」で、「赤い」は陽性と日本人は意識する。「朝日」「かがやく」「花」「咲く」「桜」など皆同じで、日本人は好ましいと感じる。

  サイタ サイタ
  サクラガ サイタ

は一年生の教科書の最初のページだった。それまでの古い教科書では、

  ハト マメ ミノ カサ カラカサ

であった。「ミ」以外は語句の冒頭はア音である。

 イ音の性格を霊性としたのは精神性を感じるからで、「石」「岩」「木」「みず」「血」「地」「道」「緑」「死」などと並べてみると分かるだろう。色でいえば「白」で、神聖な色とされる。いま、自然環境問題が叫ばれるようになったが、それらの語がここに集中している。古代日本人はすでにその心を身にしていたのである。

 ウ音はア音の反対で陰性である。「裏」「暗い」「糞」「屑」「隅」「月」「沼」「海」「膿」「虫」など。色でいえば「黒」で当然である。「うそ」「うらみ」「つらみ」「盗む」などが嫌われたこともよく分かるだろう。

 こうして自然にいけば、陽気な句には陽性の語が集まり、陰気な場面では陰性の語が集まってくることになる。逆に、陽性の語を集めては陽気な表現に、陰性の語を集めては陰気な表現になるとも言える。

  まっすぐな・道で・さみしい

は、ア音・イ音・ア音である。「さみしい」が陽性というのは意外だが、言葉の意味に変遷があったのだろうか。ここでは気持ちの「さみしい」を超えて情景の展開を見せている。単なる「さみしい」ではないのである。

  ぶらさがってゐる・烏瓜は・二つ

は、ウ音・ア音・ウ音となっている。陰性の中に陽性が浮いて見える。

  すべって・ころんで・山がひっそり

ウ音・オ音・ア音である。オ音については後で詳述したいが、情感を伴わない音である。この句はむしろ、数音で行った句で、「山が」を別にすると、4・4・4となる。ころころ転がる句だ。

  まったく・雲がない・笠をぬぎ

ア音・ウ音・ア音と展開する。ウ音(雲)を取り払って明るくなったのである。

  よい湯から・よい月へ・出た

オ音・オ音・エ音となる。説明が遅れたがオ音・エ音は古代に遅れて加わった語音といわれている。古代人はこの音に情感を抱いていなかったようである。オ音について考察すれば数量的な語句が多い。「オオミカミ」「オオクニヌシ」など美称に見えるが、一方では「細い」「細かい」がある。「遠い」に対しては「そば」がある。高島俊男氏によると、日本語が未完成な状態のとき、漢語が入ってきて抽象・観念表現をこれに任せたので、日本語は未熟のままになったそうである。オ音に抽象・観念表現を持たせようとしたのかもしれない。エ音はさらに後代加入の音か?それかあらぬ、この音には外来の意を持つものが多い。「えぞ」「えびす」「えみし」「えど」。江戸などの「エ」は「江」だが、外に開かれた場所(港)であろう。そこで日本人の感覚では「鄙・ひな」「外域」のほかに、「新しい」「珍しい」「優れもの」の意識も入ったようだ。ただし、語句は非常に少なく、殊に関東以北では発音がうまく出来ない。「君江」を「キミイ」としたり、「エビ」を「イビ」と言ったりする。

「意韻」
 節同士の意味合いが共鳴して成す韻である。



 それぞれの節の意味するところは、次のようにも理解される。



 節の意味するところの骨格を摘出していくと、「直|道|寂」の三つとなり、これらがそうごに共鳴して成るところの韻である。理屈めいた感想で決定づけるのはどうかと思うが、あえていえば「孤」ともなろうか。「孤」はすなわち山頭火自身である。
 次の、

  ぶらさがってゐる・烏瓜は・二つ

ではどうか。



 人によって見方はいろいろで、それはそれでいいのだが、私はいちおうこのように考えておく。「宙」が「共」であることによって「二」が外せないのだ。ここに「無条件」があることは後で触れる。
 ところで、

  すべって・ころんで・山がひっそり

の場合は簡単でない。数韻・音韻ではこのように読んだが、意味あいでは「すべって・ころんで」は1節に取れ、

  すべってころんで・山が・ひっそり

とする考えもあるだろうからだ。私はここでもそのまま、



としておく。「山」は骨格から外したのである。こうしてみると句の成り立ちがはっきりするのではないか。つまり動・転の作動が実は「寂」の中だったのである。

  まったく・雲がない・笠をぬぎ

 これも同じように考える。「まったく」は副詞で、意味合いは持たないと考えられるかも知れない。また「雲がない」は「雲」としていいのかどうか。私は前句で「山」を外したように、「雲」を外す。



こうして実は、山頭火の心情を見るのである。

  よい湯から・よい月へ・出た

「よい」は「湯」「月」の形容だから省く。「出た」は動詞の過去形で、もともと主語があってのものと思う。いろいろ意見のあるところだろうが私は、



こうしておく。「湯」「月」と共に在って「よい」のである。

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