・・・荻原井泉水
私が絵を描く気持ちは、句を作ると同じである。
絵を描きつつ発明したことを以て、句を作る上の工夫としたい。また、句を作る上で修め得たことを、絵の上に生かしたいと思うのである。絵と句と通じることは色々ある。俳句では単純に徹するという心持が随一である。その表現も単純の上に単純を貴ぶのだ。従って、句では、一語一音を疎かにしないものだが、絵においても一点一画が疎漏にできない。
大抵の場合に句は書き過ぎて失敗する。言い足らない位の方がものになり易い。絵でも、どこか抜けているくらいの方が味がある。書き足りているものは卑しい気がする。「単純」を尊ぶことに間違いないけれど「単調」ということはよろしくない。この二つは似て非なるものだ。「単純にして而も単調ならず」ということを以て要諦とするべきである。
句の良し悪しは取材でもなく技巧でもない、リズム一つである。そのように、簡単なる絵の面白さは、筆のリズム一つである。リズムがさらりと気持ちよくできていれば物の形は少し間違っていても、少しも苦にならぬものである。リズムは呼吸だ。脈拍だ。「静か」であり、そうして「強く」あることが一番好い。筆をつけながら遅疑の感のあることが最も悪い。これは渋滞というものだ。さりとて奔放を主としてあばれたものも亦、宜しくない、細心を欠いた大胆は粗忽というものだ。「粗忽ならず」しかも「渋滞せず」ということを以て要諦とすべきである。
絵を描いて。その余白に句を書く。つまり画賛である。この釣り合いも難しいものである。ずっと昔は絵と句としっかり付いたものだ。菊の絵を描いて、菊の句を書く、臼の絵を描いて餅の句を書くという類だ。
芭蕉や許六の画賛は概ねそうである。近代になって、絵を発句、句を附け句のように見立てた書き方が普通になった。糸瓜に矢の刺さった絵に、「松明で落人さがす夜寒かな」と題するというような行き方だ。これは子規が説いている。だが、これなどは始めから一の着想があって、それを絵と句とに分けて書いたという感じがある。本当の画賛、または題賛というものは、最初に絵は絵としてあり、それを賛を以て興を援けたという気持ちでなければなるまい。私は、絵を描くときには、大抵、草木虫魚の類を描く。そして、それに釣り合うような自分の句を考え出そうとする。句集の頁をめくって探したりする。
新生姜を描いたものに―
豆腐白さよつめたさよひぐらし
これは冷ややっこに薬味の生姜を思わせたいのである。
西洋桃を描いたものに―
けふの日西にあり日本を遠く来し
これは渡米の船中の作である。
細根の竹の子二本を横に描いたものを、眺めて考えていたところ、ふっと。その竹の子が人間のようにみえたので―
風が流れてゐるからだ横にしてゐる
防風を描いたものに、海岸の句をと考えていたところ、ふと―
砂に浪の寄せてはかえす女がひとり
こんな風に、それに合うような句を捜し出すのもしんきなものだが・・・。むしろ、新しく句を作る方が楽しいのである。
撫子を描いて―
露けさやどこまでも一すぢ道
薊を描いたものに―
すずしく二人寄りて雨はれた木々
茄子を三つ描いたものに―
すずしく二人寄りて雨はれた木々
白椿を一輪かいたものに、
今宵月夜らしく机の上に一輪
これらの句は、句その物としては、チト古い味のものだけれど、題讃としては、この程度のものが却って釣り合うようである。
それから、画の讃には、句よりも詩語を書いた方が面白いこともある。書としては、漢字と仮名とまじった句よりも、漢字ばかりの詩語の方がハッキリと形がついて、ハマリが好いのである。
慈姑を二つ描いた図に―
対座無一語 涼味在其中
サヨリと海老とを描いた図に―
曲直自然 屈折自在
兎を描いたものに―
可睡時睡 春光旬々
可躍時躍 成算歴々
これは云うまでもなく、兎と亀の競争であるが、私はお伽噺の教えとは反対に、あれは兎が勝つ方が本当であって、眠るときには大いに眠るがいいという寓意である。
こんな風に、対句を考えてゆくのも古風の趣味だけれども、又、なかなか楽しいことでもある。
又、昔の名高い詩語を借用して面白い場合もある。
セロリを描いた図に―
苟日新日日新又日新
これは湯の盤銘であるが、セロリというものに、毎朝の食卓に添えて嬉しく「日日新」なることを貴ぶものだからである。
アザミを描いた図に―
天晴日頭出 雨下地上湿
蟹を大きく描いた図に―
眼流星 機制電 殺人刀 活人剣
枇杷二つ描いた図に―
雲月是同 渓山各異
萬福萬福 是一是二
この三つは「無門関」の頌語である。私たちの自由律俳句というものは、一般の人にはどうも解りにくいものなので、せっかく、句を書いても、その句の意味でつまずいてしまう人が多い。同じワケの解らないものでも、禅宗の寝言の方が解るように思われるもの妙なことだが―句も詩語も大して変わりはないさ。それ句は9であり、詩語は45即ち、やはり9ではないかと、私は腹の中でひとり笑っている。(五月廿五日)
※読み易くするために、句以外は旧漢字や旧かな遣いを現代風に直しました。漢詩の中の文字が出てこないものは適当な感じに変えました。(草原WEB編集部)
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